ブラックパワーの爆発 その4
そこで、ジョンソン大統領は67年7月29日に全米国内騒動諮問委員会、すなわち合衆国暴動委員会を設置。
カーナー委貝会の暴動に関する報告によると、同年1月から9月の間に、大暴動が入都市で、大暴動にまで至らなかったですが深刻な暴動が33都市で、そして実に123の都市で小規模な人種騒動が発生しました。
また主要な騒動は75件で、死者は83人、負傷者は1897人に及びました。
この死者の8割以上、負傷者の5割以上がニューヨークとデトロイトで生じたものです。
その他の報告によると、暴動ないし騒動の発端は警察による何らかの行為によるものであったといわれています。
「暴徒」の大半は10代後半から30代前半までの黒人男子であり、どちらかといえば北部育ちの者で、その地域に比較的長く住んでいる者が多かったそうです。
また、スラム街に住んでいる同年齢層のなかでは比較的教育水準の高い者が多かったといいます。
そして、デトロイトでは暴動のあった地域住民全体の約11%が、ニューヨークでは同地域に居住する15歳から三35歳の黒人男子の約45%が、調査に対して「自分は暴動に参加した」と回答しています。
こうした黒人暴動の北自景として、人種政策や貧困対策が不十分であったことが指摘できますが、合衆国暴動委員会の委員は、1967年8月から12月にかけて非公開の聴聞会を重ね、各界の専門家から意見を夢とともに8都市を視察し、翌68年に育会報告を公表しました。
その1ヵ月後の68年4月4日、キング牧師が暗殺されました。
これを機に大暴動がメンフィスから首都ワシントンへ、ついでシカゴ、ボルチモアへと波及しました。
暴動は125都市に及び、死者43人、負傷者約4000人、逮捕者約1万5000人にのぼりました。