ブラックパワーの爆発 その5
学校教育では、1964年の公民権法下で連邦政府から補助金を受けている事業や計画において人種差別が禁止され、連邦資金をもらっている学校区は人種差別を撤廃するか、あるいは受け入れられるような撤廃計画を提示しなければならなくなりました。
65年の13億ドルの補助金をつけた初等中等警法は、先の法律を守らせるもウ1つの促進剤になりました。
その結果、65年9月までには、南部および境界諸州の124を除く全学校区が、黒人が白人の学校に入学できる計画を提示していました。
しかし、旧南部連合の11州では、65年から66年度において、差別を撤廃した学校に通学していた黒人の子供数は全体のわずか6%にすぎなかったのです。
しかし67年の春、第5地区の合衆国巡回裁判所の法廷は、アラバマとルイジアナ両州の公立学校組織から起こされていた合衆国対ジェファーソン郡訴訟事件の判決において、「憲法の規定に合致する学校
の差別撤廃計画は、うまく実施できるものでなければならない」と判決しました。
この判決は合衆国に真の民主的な教育をもたらすものとして、黒人はもとより多くの白人にも支持されています。
60年代がアメリカの黒人たちにとって革命の時期であったことは疑いのない事実です。
バスボイコット、座り込み、フリーダムライド、行進、デモ、投票者登録運動といったさまざまな運動が六〇年代に繰り広げられ、黒人問題に対する新しいアプローチが試みられました。
しかし、黒人問題はアメリカ社会が抱える根本的な問題であり、現在もなお未解決のまま継続されており、その意味から60年代の事件を振り返りながち問題の根の深さを十分に理解することが必要と思われます。